HOME > オールドノリタケの世界
オールドノリタケの世界

森村市左衛門は、江戸から明治への時代の変革期の真っ只中である1839年に生を受けました。1858年に日米修好通商条約が締結されます。1859年に横浜港が開港し、日本に自由経済の波が押し寄せます。しかし、日本と海外での金銀対価の違いによって大量の小判が海外へ流出させられることになりました。これを憂えた市左衛門は、武具商として出入りのあった大名家の紹介で福沢諭吉と出会います。福沢はこの問題について「外国人が持っていく金を取り戻すには、輸出貿易を行う他に道はない」と語ります。

市左衛門は自らがその先駆者となるべく、国のためになるならばと武具事業で蓄えた資金を投げうって1876年に東京・銀座に貿易商社「森村組」を創設します。これが現在のノリタケカンパニーになります。当時の貿易商社は政府から資金援助を受けているのが一般的でしたが、市左衛門は「独立自営」を掲げ、援助に頼ることなく経営しました。その理由は自らの力で苦境を乗り越えることこそが会社を発展させる原動力であるとの信念があったからです。さらに市左衛門に共感した異母弟・森村豊は1876年3月に船でアメリカ・ニューヨークへ発ちます。同年11月には、仲間とともにニューヨークに「日の出商会」を設立し、雑貨商を開業しました。これが開国後の日本における民間初の日米貿易と言われています。市左衛門が陶磁器や漆器、銅器、人形等を買い集めて豊へ送り、外国人に販売していました。しかし、次第に業績に伸び悩むようになり、仲間たちと事業への考えにずれが生じた豊は、日の出商会を解消し、1878年に新たに「日の出商会森村ブラザーズ」を設立します。その3年後には社名をモリムラブラザーズへ変更し、アメリカ進出の基盤が整いました。

一方の市左衛門は銀座で150坪の店舗を構えるほどに森村組を発展させていました。1880年に商業視察で渡米した市左衛門は、日本の商品をより多く輸出して国家に貢献するには、卸売専門になった方が得策であると考えます。そこで市左衛門と豊は卸売業の中でも陶磁器の販売が最も有力であると判断し、営業方針を転換します。ここから近年オールドノリタケと呼ばれている西洋風絵付けの輸出
陶磁器が誕生することになりました。森村組は瀬戸の加藤春光をはじめ、川本桝吉などの優れた窯と専属契約を結んで陶磁器の生地製造を依頼することにしました。絵付けは当初、九谷地方から画工を招き行っていましたが、1889年頃には東京の河原徳立、井口昇山、京都の石田佐太郎、名古屋の西郷久吉など錚々たる顔ぶれが森村組の専属画工場として絵付けを行っていました。この頃の作品には明治の職人技が生きた精緻なものが多く残されており、現在では再現不可能と言われています。こうして森村組は花瓶、飾皿などの生産を開始して、ビジネスを拡大していきます。1893年、森村組はシカゴ万博の視察を行い、欧米諸国の陶磁器の彩画のレベルに衝撃を受けて洋風画の採用を決意しました。日本画の絵付けに専念していた画工たちにとっては洋風画の習得は容易な問題ではなく、当初は洋風画の絵付けを試そうともしませんでした。画工たちの説得と技術の習得には苦心を有しました。やがて熱意の説得が実を結び、もともと高い技術を有していた画工たちは洋風画を習得し、欧米諸国から注文が殺到しました。

こうした様々な課題を乗り越え欧米に受け入れられた森村組の作品は、約100年もの間欧米で愛され、生活に根付いていきました。
森村市左衛門が掲げてきた信念は100年以上経過した現在でも、オールドノリタケという作品を通して私たちに語り掛けてくれます。
作品の美術的価値はもちろんのこと、日米貿易や現在の陶磁器産業の礎を築いた先人たちの物語について少しでも多くの方にお伝えできれば幸いです。

オールドノリタケの作品を見る >>