薩摩焼 楠部千之助 鳥文首長花瓶
名称 薩摩焼 楠部千之助 鳥文首長花瓶
裏印 大日本楠部製
状態 カケ・ワレ・ヒビなどなく良好な状態
寸法 H:46.5cm L:13.5cm W:13.5cm
素材 陶磁器
原産 日本
仕入 イギリス
桐箱 有
付属 作品証明書
数量 現品のみ
価格
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薩摩焼は今から約400年前、島津義弘が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)から引き揚げる際に、産業振興の為に朝鮮陶工を連れ帰ったことが始まりとされています。その後、朝鮮陶工の装飾技法に日本伝統の技法を取り入れて独自の発展を遂げ、現在に至るまで脈々とその命を育み続けています。
その後、江戸幕府の滅亡による社会的動乱は陶磁器業界にも大きな影響を与えました。天皇が居住し文化の中心地であった京都は幕末の戦火により街が焼かれ、遷都によって天皇、公卿、商人は東京へ移っていきました。さらに明治維新によって従来の購入者であった大名や公卿等がいなくなり、庇護を失った御用窯は廃窯を余儀なくされます。加えて同業組合の解散も重なり、陶磁器の製造者は大打撃を受け「都のやきもの」という京焼ブランドも失墜してしまいました。従来の制度は撤廃されましたが、明治政府の殖産興業の推奨により各陶工たちは次第に他地域への移動や窯業への新規参入などを行い再び陶磁器の製造が活発になっていきました。そして新たな販売先として注目されたのが「海外」でした。なかでもイギリス、フランスを中心としたヨーロッパへの販売に力を入れていきます。きっかけは1867年のパリ万博でした。薩摩藩が薩摩焼を出品したところ「極東の宝石」と評され、日本の陶磁器の人気に火が付き、以後の輸出向け陶磁器の製造の呼び水となりました。
陶磁器を有望な輸出品として認識した政府は、様々な政策を講じて輸出の後押しをしました。以降、薩摩焼は京薩摩(錦光山、帯山等)、大阪薩摩(藪明山)、神戸薩摩(司山、精巧山等)、東京薩摩(陶博園)、横浜薩摩(服部、保土田等)など日本各地で作陶され様々な発展を遂げていきました。
なぜ薩摩焼はこれほどまでに発展し、欧米諸国から求められたのでしょうか。その人気の理由は何と言ってもその細密さにあります。薩摩焼は世界で最も細密な絵付けが施された陶磁器だと言われています。当時の絵付け職人たちの技術は群を抜いて高く、肉眼では見えないほどの絵付けの作品も存在しています。欧米人が作品を購入しに工房に来ると、ルーペを持たせて作品を見せていたという逸話も残っているほどです。特に大名行列図や祭図などは圧巻の細かさの作品が多く、そこに描かれる人物図はわずか1~2㎝ほどの小ささであるにも関わらず顔の表情や衣装の模様にいたるまで見事に描き分けられています。ご鑑賞の際にはぜひ、薩摩焼がいかにして発展していったのかというところも含め、細密画の世界をお楽しみいただければ幸いです。
< 資料 >
・薩摩焼の世界 ~ 明治輸出工芸の華 ~

・楠部千之助 [ 1859-1941年 ]
楠部家は代々伊勢神宮の祭器の製造をしていた粟田焼の名家です。千之助は他家からの養子で、日本画家「幸野楳嶺」の門人で画家として生きていくつもりだったが、1887年頃に楠部陶器貿易工場を設立し、輸出用の薩摩焼 ( 京薩摩 )の製造・販売を始めました。錦光山、安田に次いで京都粟田口で3番目に大きな窯元まで成長しました。息子の楠部彌弌(1897-1984年)は陶芸作家として活躍し文化勲章も授賞しています。