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森村組の絵付け工場

TEL. 04-7179-0116 MOBILE. 070-6473-8710

千葉県我孫子市台田4-11-42 敬誠北柏ビル

画工

森村組の専属の絵付け工場

河原徳立(1844-1914年)

1844年に江戸・小石川に生まれ、15歳で河原興一郎の養嫡子となりました。1870年に東京・深川に移り、式部寮に奉職し、翌年には内務省勧業寮に入り、さらに出品掛りになりました。1873年に深川区東森下町に「瓢池園」を設立します。素地は瀬戸・有田・栗田・薩摩から仕入れ、上絵付けを行っていました。いわゆる東京絵付けです。瓢池園は当初、起立工商と取引をしていたが、後に森村組へと取引先を変更しています。その後、森村組に経営権を移譲し統合されました。1900年のパリ万博で日本陶磁器のデザインの立ち後れを痛切に感じ取り、心機一転その改良を目指して「京都瓢池園」を設立しました。「ふくべ焼」の商号で製造を開始しました。

石田佐太郎(1858年-)

1858年に京都・清水焼の卸売り店に生まれ、1873年頃には染付の技法を学び、同時に幸野楳嶺のもとで絵画を習得しました。その後、幹山伝七店に勤務し、1880年頃に独立し松風陶器の絵付けの下請けをやっていました。1890年に森村組が京都に専属画付工場を建設した際に、工場主として雇われました。日本陶器設立後も働き、1910年に退職しています。
* 幸野楳嶺(1844-1895年)
江戸時代末から明治初期の日本画家と同時に、京都府画学校という日本初の近代的な美術の教育機関の設立に関わった人物です。楳嶺は京都に生まれ、円山派の画家・中島来章(1796-1871年)、四条派の塩川文麟(1808-1877年)に師事しました。作風は師の来章や文麟より継承した伝統的な円山四条派の画風とともに、謹直な性格を反映した写生へのこだわりを感じさせます。


西郷久吉(1861年-)

1861年に名古屋に生まれ、日本画を鷲見春岳に学び、1885年頃に森本善七商店に勤務して七宝の図案を描いていました。その後、四方松次郎、友松商店などで陶画工として勤務し、1890年から森村組に仕事を始めました。1892年には専属画工となり、日本陶器設立以降も仕事を続け、1909年に引退しました。

井口昇山(生没年不詳)

「明治十六年日記帖」に最も多く掲載が確認されている画工です。1890年の「陶器商便覧」には森村組画工場長と明記されているので、この頃には多くの絵付けを請け負っていたと思われます。1895年の「陶器商報」で河原を筆頭とする五二会東京陶磁器部入会者八名の中に記載があり、東京で活躍していたと推測できます。水金唐子の絵付けで森村組を長きに渡って支えました。

杉村作太郎(生没年不詳)

東京本所にある画工場「胡蝶園」。森村組との取引開始期間は不明だが、1887年頃には森村組の主要な画工場として活躍していました。約100人の職人を使い、花鳥類の絵付けを中心に行っていました。1877年頃から森村組の仕事を手掛けていたと思われます。

安立清吉(1867年-)

1867年に東京・浅草で生まれ、加賀・陶画工「粉雪堂旭山」のもとで約10年ほど修行をしました。「旭山」は藤村の号のため、おそらく藤村に師事したと考えられます。

藤村興兵衛(-1904年)

加賀出身の陶画工で「旭山」と号し、1855年に東京で絵付け窯を開業した。「大日本窯業協会雑誌」に1892年に陶器画付業先導者として横浜の陶器画付業者より銀杯を贈られた有名な陶画工です。1904年に亡くなっているが、その後も日本陶器のデザイン画帖に名前の記載があることから、後継者により工場は引き継がれたと思われます。