薩摩焼の名窯・作家
江戸時代の末期、幕末以降の欧米ではジャポニズムの影響で日本の工芸品は人気がありました。その代表格が薩摩焼です。鹿児島、東京、横浜、神戸、京都、大阪など近くに港がある都市で発展し、一大輸出産業となりました。錦光山宗兵衛、帯山与兵衛、藪明山、成瀬誠志、川崎富山、楠部千之助、トーマス・ビ・ブロー、保土田太吉、服部等などの世界的に評価を得た名窯・作家がいる一方、資料が少なくその詳細が不明なものも多く存在しています。そんな多くの陶工たちによってオリジナルのデザインが作られ、明治時代に海外の万博への出店を機に高い評価を得ました。そのデザインは、「超絶技巧」と呼ばれ、細密で絵付けに豪華絢爛な色彩が特徴です。隙間なく全体に繊細な絵付けや装飾を施しました。その高い技術力は現代では再現が不可能だと言われています。そのモチーフも花鳥、羅漢、人物風俗、風景など多岐に渡ります。
*幕末から明治にかけて開花した薩摩焼は、そのほとんどを欧米諸国に輸出したため国内に遺品は少なく余り研究が進んできませんでした。近年、約100年の旅を終えて欧米諸国から相次いで里帰りしていて、徐々に様々な事が解明しています。ここに記載した名窯はごく一部に過ぎず、より研究が進み解明が進むことを期待しています。
錦光山宗兵衛
[ 6代:1824-1884年 、 7代:1868-1927年 ]
錦光山は京都粟田焼の旧家で江戸時代に開窯した名門です。青蓮院や将軍の御用品も製作していました。明治の激動期に京焼のパトロンを失った中、いち早く輸出を手がけて京薩摩の生みの親でもあります。6代は幼少期より5代から陶法を学び、1836年に亡くなると、家督を継ぎました。 1865年頃から輸出貿易に着手し、豪華絢爛な細密画の京風の薩摩焼で一世を風靡し、海外から非常に高く評価されました。7代は6代同様に海外の万博で多くの受賞歴があります。また1894年には陶磁器業界初の統一組合「京都陶磁器商工組合」の結成に参加し、初代組合長に選出されています。
< 海外万博の主な受賞歴 >
1879年:シドニー万博(銅牌)
1883年:アムステル万博(金牌褒状)
1888年:バルセロナ万博(金牌)
1889年:パリ万博(銀賞)
1900年:パリ万博(金賞)
1904年:セントルイス万博(大賞)
1905年:ベルギー万博(グランプリ)
1906年:ミラノ万博(大賞)
1908年:ロシア家具装飾万博(大賞)
< 国内の主な受賞歴 >
1871年:京都博覧会(銅牌)
1875年:京都博覧会(銅牌)
1876年:京都博覧会(銅牌)
1877年:第1回内国勧業博(花紋褒状)
1881年:第2回内国勧業博(銀牌)
1887年:京都新古美術会(名誉記念牌)
1903年:第5回内国勧業博(名誉賞牌)
帯山与兵衛
[ 8代:?-1878年 、 9代:1856-1922年 ]
帯山は江戸時代後期に禁裏御用も務めたことのある京都粟田口の名家で、錦光山家、安田家と共に京都粟田焼を代表する窯元です。5代は青磁の名手、6代は粟田での彩画陶器の生みの親として活躍しました。9代・帯山与兵衛は京都五条坂にある清水家に生まれ、1878年に8代が亡くなると清水家から帯山家の養子になり、9代を襲名しています。京薩摩の色絵金襴手や七宝焼を手がけ内外の展覧会で多くの受賞歴があります。1890年の京都美術博覧会、1892年の京都市美術工芸品展では審査員も努めました。1894年に粟田口窯に廃し、京都南部・八幡にて南山焼を興しました。
< 海外万博の主な受賞歴 >
1883年:アムステルダム万博(銀牌)
1888年:バルセロナ万博(銀牌)
1889年:パリ万博(銀牌)
< 国内の主な受賞歴 >
1875年:京都博覧会(進歩銀牌)
1881年:第2回内国勧業博覧会(褒状)
1882年:京都博覧会(有功銅牌)
1884年:京都博覧会(進歩銅牌)
1885年:京都博覧会(進歩銅牌)
藪明山
[ 初代:1853-1934年 、 2代:1868-1941年 ]
藪明山は画家・藪張水(1814-1867)の次男として大阪・長堀に生まれ、7歳から成人まで淡路島で過ごしました。
1880年に東京に出て陶画を研習して大阪に戻り、北区中之島に薩摩焼描画場を設立しました。素地は苗代川の沈壽官窯や京都・粟田口より白生地を購入し、絵付けを行い京都の山中商会、神戸の外国人貿易商に販売され、大阪薩摩(明山薩摩)と呼ばれています。
藪明山は絵付けに専念していた為に細密で高品質な作品に定評があり、世界各国で人気を博しました。当時の名刺にも「PAINTER OF THE FINEST SATSUMA PORCELAIN」と記載があり絵師としてのプライドが感じられます。1893年に米国で刊行された雑誌「Clay Record」に「薩摩焼の絵付けに関しては、藪明山が日本一の作家であることは間違いない」との記述もあります。小さな作品が多い為、藪明山自身もトランクに作品を入れて欧米諸国で販売していたとも言われています。
< 海外万博の主な受賞歴 >
1889年:パリ万博
1893年:シカゴ万博
1900年:パリ万博
1904年:セントルイス万博
1905年:リエージュ万博
< 国内の主な受賞歴 >
1885年:第14回京都博覧会
1890年:第3回内国勧業博覧会
1895年:第4回内国勧業博覧会
1903年:第5回内国勧業博覧会
1909年:第6回全国製産品博覧会
成瀬誠志
[ 1845-1923年 、 名:和六 ]
1845年に岐阜県中津川市に生まれ、 1858年に地元の茄子川焼の篠原利兵衛の徒弟となります。1871年に上京し、芝区・増上寺に工房を構え陶画工となり、薩摩焼風陶器の絵付けを始めました。当時、幕末から欧米で好まれたジャポニスムの流行を受けて作陶した成瀬の細密精緻な「東京薩摩(江戸薩摩)」の評判を聞いて外国人が来店すると黙って、「拡大鏡」を渡したと言われています。その細密画は瞬く間に海外でも評判になり、注文が殺到したようです。1つ1つが手描作業のため制作数が少なく、眼にする機会は非常に稀です。1877年に開催された第1回内国勧業博覧会での受賞を皮切りに、国内外の博覧会で入賞するなど高い評価を受けました。米国の動物学者で日本陶磁収集家“エドワード・モース”から「薩摩焼風陶器の細密画の元祖」と紹介されています。
1884年に日光を訪問した際に東照宮の陽明門の素晴らしさに感動し、陶器で作ることを決意しました。1886年、より本格的な制作の場を求め帰郷し、工房「陶博園」を作りました。そこで、3年の歳月をかけて「日光東照宮の陽明門」を完成させました。この作品は1893年に米国・シカゴ万博に出品した際に輸送中の事故で破損し、その一部を展示したところ多くの賛辞を得て「工芸一等賞」を受賞しました。
川崎富山
[ 1875-1922年 ]
「龍雲冨山」銘は川崎富山と考えられている。銘では「冨」だが、号としては「富」が用いられている。京都粟田鍛治町に店舗と絵付場を設立して輸出用の薩摩焼 ( 京薩摩 )を製造していました。神戸にも出張所を設立し、錦光山、安田、楠部に次いで4番目に大きな規模で輸出陶磁器の製造を行っていた。明治末期の輸出不振の際には友禅の絵描きに転身するものもいたと伝わっています。
楠部千之助
[ 1859-1941年 ]
楠部家は代々伊勢神宮の祭器の製造をしていた名家です。千之助は他家からの養子で、日本画家「幸野楳嶺」の門人で画家として生きていくつもりだったが、1887年頃に楠部陶器貿易工場を設立し、輸出用の薩摩焼 ( 京薩摩 )の製造・販売を始めました。錦光山、安田に次いで京都粟田口で3番目に大きな窯元まで成長しました。息子の楠部彌弌(1897-1984年)は陶芸作家として活躍し文化勲章も授賞しています。
トーマス・ビ・ブロー
[ 1853-1941年 ]
トーマス・ビ・ブロー( Thomas Bates Blow 【 正公武郎 】 )は明治末期頃から大正期にかけて日本で商売をしていた英国の美術商です。スイスのアルフレット・バウアーという日本の美術コレクターに日本の漆器、陶磁器等を販売していたことで有名です。薩摩焼以外にも様々な産地の美術工芸品を扱い、輸出していたと考えられています。京都に自宅を構えていたとも言われています。
保土田太吉
[ 1868-?年 ]
神奈川県橘樹郡に生まれ、15歳の時から横浜の製茶屋で修業し、22歳頃から陶器商に従事しました。1903年に堺町(現・日本大通り)に店舗を構え、1890年頃から1920年頃まで主に薩摩焼
( 横浜薩摩 )の輸出と販売をしていました。一般品から高級品まで多種多様なものを製造していました。保土田とともに働いたことのある非常に優れた芸術家には、慶喜、明山、正信、帯山、章山などがいます。保土田の死や会社の閉鎖に関する詳細な記録はありません。1900年の春季美術展覧会(褒状3等賞)、1904年のセントルイス万博で銀賞を受賞。
服部
[ 生没年不詳 ]
横浜元町に店舗があり、自社製品を製造し欧米諸国へ輸出していたようです。詳細な資料がなく余り知られていませんが、かなり細密緻密な薩摩焼 ( 横浜薩摩 )を製造していたようです。
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