薩摩焼とは
薩摩焼とは今から約400年前、島津義弘が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)から引き揚げる際に、産業振興の為に朝鮮陶工を連れ帰ったことが始まりとされています。その後、朝鮮陶工の装飾技法に日本伝統の技法を取り入れて独自の発展を遂げ、現在に至るまで脈々とその命を育み続けています。明治時代にパリ万博やウィーン万博などの海外の万博に出品したのを機に欧米諸国で人気が高まり、世界に雄飛していきました。欧米人に好まれた日本的又は東洋的なデザインに金彩を多用した華麗な作品が鹿児島以外でも神戸、大阪、京都、横浜などでも作られるようになり、「極東の宝石」と呼ばれるまでになりました。
商品説明
明治時代に開花した
京薩摩の金襴手草花文花瓶が約100年の時を経て日本に里帰りしました。小さな花瓶に花を細密に描いた超絶技巧に相応しい作品です。銘は「帯山」と記載があり、帯山与兵衛(
8代:?-1878年、 9代:1856-1922年)のものだと思われます。 帯山家は江戸時代後期に禁裏御用も務めたことのある京都粟田口の名家で、錦光山家、安田家と共に京都粟田焼を代表する窯元です。5代は青磁の名手、6代は粟田での彩画陶器の生みの親として活躍しました。9代・帯山与兵衛は京都五条坂にある清水家に生まれ、1878年に8代が亡くなると清水家から帯山家の養子になり、9代を襲名しています。京薩摩の色絵金襴手や七宝焼を手がけ内外の展覧会で多くの受賞歴があります。1890年の京都美術博覧会、1892年の京都市美術工芸品展では審査員も努めました。1894年に粟田口窯に廃し、京都南部・八幡にて南山焼を興しました。
< 海外万博の主な受賞歴 >
1883年:アムステルダム万博(銀牌)、1888年:バルセロナ万博(銀牌)、1889年:パリ万博(銀牌)
< 国内の主な受賞歴 >
1875年:京都博覧会(進歩銀牌)、1881年:第2回内国勧業博覧会(褒状)、1882年:京都博覧会(有功銅牌)、1884年:京都博覧会(進歩銅牌)、1885年:京都博覧会(進歩銅牌)
商品概要
- 名称 薩摩焼 金襴手草花文花瓶
- 裏印 帯山製
- 状態 カケ・ワレ・ヒビなどなく良好な状態
- 寸法 H:12cm L:5cm W:5cm
- 素材 陶磁器
- 原産 日本
- 仕入 アメリカ
- 付属 作品証明書
- 数量 現品のみ
- 価格 売切【 u1918 】
明治期の薩摩焼の世界
~ 日本の国益に貢献した輸出工芸の華 ~
江戸幕府の滅亡による社会的動乱は陶磁器業界にも大きな影響を与えました。天皇が居住し文化の中心地であった京都は幕末の戦火により街が焼かれ、遷都によって天皇、公卿、商人は東京へ移っていきました。さらに明治維新によって従来の購入者であった大名や公卿等がいなくなり、庇護を失った御用窯は廃窯を余儀なくされます。加えて同業組合の解散も重なり、陶磁器の製造者は大打撃を受け「都のやきもの」という京焼ブランドも失墜してしまいました。
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薩摩焼の年譜
~ 世界に雄飛した薩摩焼 ~
- 1598年 朝鮮出兵の際に島津義弘が朝鮮人陶工を連れて帰る
- 1610年 初代・沈当吉が苗代川焼を開窯
- 1628年 沈当吉は薩摩藩の命を受け、朴と共に白土を発見し本日の薩摩焼を創製
- 1823年 6代・錦光山宗兵衛、京都に生まれる
- 1853年 藪明山、大阪に生まれる
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薩摩焼の名窯・作家
江戸時代の末期、幕末以降の欧米ではジャポニズムの影響で日本の工芸品は人気がありました。その代表格が薩摩焼です。鹿児島、東京、横浜、神戸、京都、大阪など近くに港がある都市で発展し、一大輸出産業となりました。錦光山宗兵衛、帯山与兵衛、藪明山、成瀬誠志、川崎富山、楠部千之助、トーマス・ビ・ブロー、保土田太吉、服部等などの世界的に評価を得た名窯・作家がいる一方、資料が少なくその詳細が不明なものも多く存在しています。
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参考資料
トップ > ラインナップ > 薩摩焼一覧 Vol.001 > 薩摩焼 帯山 金襴手草花文花瓶